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旗振り山と正法寺

瓦屋山史跡保存会 

神戸市長田区片山町にある禅刹、正法寺の境内に、「瓦屋山/大正元年十月開始/開山者谷口万治郎」と彫られた、旗の掲揚塔の基部が残っている。この谷口万治郎という人物は、正法寺の開基にあたり、「瓦屋山」とは正法寺の山号である。ちなみに山号の「瓦屋山」は、地元の素封家であった谷口家の屋号の「瓦屋」に由来すると伝わっている。

この掲揚塔は、実は戦後になって、正法寺の周辺の宅地開発にともない、境内に移されてきたものである。それ以前は、正法寺の裏の少し見晴らしのよい丘〔かわらやま〕に建てられていた。そのすぐ側には「水晶閣」と呼ばれる2階建ての楼閣があった。この楼閣も万治郎氏によるもので、「水晶」という文字は、万治郎氏の幼くして亡くした二女の戒名からとられたといわれている。

当時、万治郎氏はこの水晶閣の地を、米相場のいわゆる「旗振り通信」の中継所に位置づけ、自身も相場取引に何らかの形で関わっていたらしい。

実は、水晶閣への「旗振り通信」は、ごく最近まで兵庫区の十郎池跡地(現在の下祇園町)に株式取引所があったことから、株式取引所からの通信を、次の中継所である水晶閣で受けていたと思われていた。

しかし、旗振り山の研究者である柴田昭彦氏の調査で、水晶閣と株式取引所との「旗振り通信」の可能性は低いことが分かった。

柴田氏によれば、水晶閣(標高は、約50メートル)と、株式取引所(標高は、約25メートル)の間に、両地点を遮るかたちで会下山(当時の標高、86メートル)が位置しているため、旗振り通信が不可能になる。会下山に中継所があったことも考えられるがそのような記録は残されていない。また「旗振り通信」のほとんどが株式取引ではなく、米相場の通信として用いられていた事実がある。

そこで考えられるのが、大正元年当時、兵庫区の水木通り3丁目にあった神戸米穀株式取引所からの通信である。明治15年には、神戸中継所(兵庫新川の米商会所)は現在の神戸中央市場付近にあったが、明治39年には水木通3丁目に神戸米穀株式取引所ができ、大正時代まで継続し、大正8年には神戸取引所に改組された。

神戸米穀株式取引所からの通信を水晶閣で受け、次の中継所へ送ったことが事実のようである。

江戸時代末から明治時代にかけて、大阪・堂島の米市場での相場が、毎日旗を振って暗号でリレー形式に伝えられた。大阪堂島で振られた旗信号は 「尼崎辰巳橋─武庫川堤─金鳥山─諏訪山─高取山─須磨旗振山─明石金ヶ崎山─高砂─姫路─-龍野─赤穂─天狗山─熊山─旗振台古墳─岡山─広島─下関─若津(福岡県大川市)」と伝達された。このルートの支線として水晶閣が含まれたケースも幾度となくあったことであろう。

ルートのそれぞれの中継地を旗振り場、旗振り山と呼び、須磨の山だけが今にその名をとどめた。 須磨の旗振山の山頂の旗振茶屋の横に、現在設置されている説明板には、「こゝ旗振山は、その名の通り昔、旗振通信をしていた場所である。江戸時代から大正初期電信が普及されるまで、こゝで畳一畳位の旗を振り、大阪堂島の米相場(米の値段)を加古川、岡山に伝達していた中継点であった事から『旗振山』の名が残っている。創業昭和六年三月 旗振茶屋」とある。

「一手千両の花が咲く」といわれた堂島の米取引所は、享保15年の幕府公認以来、食管法により米が統制になった昭和14年までつづく。当時は諸藩も武士個人も米問屋などを通じて換金しなければ、必要な物資をまかなえなかった。堂島で定まったレートはあらゆる物価の基準になった。こうした背景から、諸国の米業者や商人たちが、米相場を一刻も早く知りたがるのは当然で、その要求から「旗振り通信」は生まれた。速さでは飛脚の比にならず大阪〜広島間をわずか40分程で伝えたという。

現在では、水晶閣も取り壊され、水木通の米取引所は大開通の拡張にともない姿を消している。これらの中継地の建物(特に米取引所)を知る人々も少なく、米相場の旗振り通信に関わった人々となると、ほとんどおられない。現代社会の情報伝達網の発展からみれば、ほんの1世紀も満たないほど時代をさかのぼった社会に「旗振り通信」が行われていたとは信じがたいが、実は現代の電信・電話の遠距離通信と「旗振り通信」には大きな相関点がある。それは、「旗振り通信」の通り道が、NTTの長距離電話に利用されているマイクロウエーブ(極超短波)の代表的なルートとよく似ていることにある点である。マイクロは光と同様に直進する性質があり、相互に見通しのきく場所にアンテナを立てて送っていくので、「旗振り通信」と原理は同じで、古人が選んだのとよく似たコースに落ち着いたという訳である。

その昔、正法寺のすぐ裏山を経由して日に日に米相場の情報が「旗振り通信」によって西日本を目指して飛んでいた。その後ずいぶんと様子が変わり、現在は寺の境内に旗の掲揚塔の基部だけが残るのみとなった。しかし水晶閣のあった地はかつての「旗振り山(場)」であり、情報(の通信)と深く関わる地にあることは確かである。​

堂島米市場跡記念碑

大阪市北区堂島浜1丁目3

堂島米市場跡記念碑.jpg
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